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「永井荷風の女遊びの代表作」最もゲスな文豪の作品を「初耳学」で紹介【画像】

   

永井荷風の女遊び (2)

2018年1月14日(日)放送、TBS系列「初耳学」
22時25分~23時19分

林修の「スキャンダル日本史」

今回は、死ぬ直前まで孤独と浅草が好きだった作家・永井荷風の人生を振り返る。

永井荷風の作品は、読んで単純に面白いと言えるものではない。それは、読むに値しない「つまらない作品」ということではなく、味わいのある作品。作風が「大人向け」で、耽美的なもの(道徳的なことや倫理的なことよりも優先して美を求めること)


特に永井荷風の花柳界を舞台にした「腕くらべ」「おかめ笹」は耽美的かつ享楽的。

新橋芸者・駒代を主人公にした芸者たちの「腕くらべ」。山の手ブルジョア家庭と三流花柳界を舞台にし痛烈な風刺をきかせた「おかめ笹」は、耽美小説の代表作ともいえる。

女性の官能美を徹底して書き続けて、耽美派の第一人者となった永井荷風ではあるが、その裏ではゲスなまでの女遊びが行われていたという。

今夜の放送に先駆け、永井荷風の人物像をまとめてみた。

■目次

永井荷風プロフィール

永井荷風の作品

永井荷風の女遊び

永井荷風の女遊びは芸の肥やし?

日本における遊郭とは

永井荷風プロフィール

永井荷風の女遊び2

永井 荷風(ながい かふう)
本名・永井 壮吉(ながい そうきち)

生年月日 1879年12月3日 (死没 1959年4月30日79歳没)
出身 東京市小石川区

父・久一郎はプリンストン大学やボストン大学に留学経験もあるエリートで、内務省衛生局に勤務していた(のちに日本郵船に天下った)。母・恒は、久一郎の師で儒者の鷲津毅堂の二女。

東京女子師範学校附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)、小石川区小日向台町(現文京区小日向二丁目)に存在した黒田小学校初等科、東京府尋常師範学校附属小学校高等科(現・東京学芸大学附属竹早小学校)と進み、1891年に神田錦町にあった高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)2年に編入学

また芝居好きな母親の影響で歌舞伎や邦楽に親しみ、漢学者・岩渓裳川から漢学を、画家・岡不崩からは日本画を、内閣書記官の岡三橋からは書をそれぞれ学ぶ。

1898年から習作を雑誌に発表し、1902年から翌年にかけ、『野心』、『地獄の花』、『夢の女』、『女優ナナ』を刊行。


特に『地獄の花』は森鴎外に絶賛され、彼の出世作となる。

一方、江戸文学の研究のために落語家六代目朝寝坊むらくの弟子となって夢之助を名乗って活動したのもこのころである。 旺盛な創作活動の一方では、荷風の権力に対する反骨精神も作品に反映することもあった。特に1902年発表の『新任知事』は、叔父の福井県知事阪本釤之助をモデルとしたといわれ、これがもとで釤之助は荷風を絶縁する事件が起こっている。

参照wiki

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永井荷風の作品

永井荷風の女遊び4

永井荷風で有名な作品は、

「ふらんす物語」
青春期の外遊体験を元にした作品。

「腕くらべ」
永井荷風が得意とされた花柳小説の代表作。

「墨東綺譚」
永井荷風の晩年に書かれた日中戦争直前の世相の中の作品。


特に永井荷風の「ふらんす物語」は、当時、当局に危険思想ととらえられた。

時代的には、日露戦争後の「愛国心」を高めるような風潮の時期だった当時、1908年には「大逆罪」が施行されている。(幸徳事件が起こるのは1910年)

永井荷風の「洋行帰り」の自由思想を元にした、後に耽美派といわれる歓楽的な表現、皮肉な日本批判とも取れる文章が、当局には風俗を乱すもの「風俗壊乱」(社会のよい習慣を破壊し混乱させること)として発売禁止になった。永井荷風は「退廃的な雰囲気や日本への侮蔑的な表現などが嫌われた」と語っている。

しかし、文庫本だと岩波文庫と新潮文庫から現在では出版されている。
岩波文庫本「ふらんす物語」は、発禁になった初版本を再現したもの(但し、仮名遣いなどは岩波文庫編集部によって現代仮名遣いに変更されている)。これに対して、新潮文庫本「ふらんす物語」は、基本的に大正年間に刊行された(つまり戦前の当局が出版を許可した)本に基づいている。


この両者を比べると、初版本が発禁になった理由を推察するヒントがある。

少し具体的に例を挙げると、初版本「ふらんす物語」には収録されていた「脚本 異郷の恋」が、発行許可本では完全に削除されている。また、初版本「ふらんす物語」では「放蕩」と題された小説が、発行許可本では「雲」と改題されて、おまけに本来あった文章がかなり削除されている。

また、岩波文庫の「ふらんす物語」の解説を記した川本浩嗣は、「『放蕩』と『脚本 異郷の恋』の二作は、荷風自身が発禁の原因だとにらんでいた」と述べている。

wikiによると、「永井荷風再考」(NHKカルチャーラジオのテキスト)で評論家・菅野昭正氏は、「『ふらんす物語』は、当局に納本する所定の手続きも完了していました。ところが理由を明示されないまま、即座に発売販布禁止と決定されて、日の目を見ることができませんでした。この措置にたいして、作者自身は巻頭の『放蕩』(のち『雲』と改題)、『脚本 異郷の恋』の二篇が風俗壊乱の恐れありとみなされたのであろうと憶測していたらしい。六年後、この不運な本は危険な二篇を省き、さらに多少の改訂を加え『新編 ふらんす物語』として刊行されます」と記した上で、ラジオの本放送では、「発売禁止の理由は内務省の管轄なので明示されないが、荷風にとっては衝撃的なことだった」と語っている。

現在でも学者の間で議論があるように、本当の発行禁止の理由は、内務省が禁止指令した文書が残っていないので不明だが、「危険な二篇」を削除・改訂した本が発行許可を得たことを考えると、永井荷風自身の推測が正しかったのかも知れない。

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永井荷風の女遊び

永井荷風の女遊び1


永井荷風は「男の遊び心」を、根が真面目な中年男の欲情をうまく捉えている。

中年以上で、それなりに女性経験を重ねた男性なら、永井荷風の作品を読むと「分かる」「分かっているなあ」というものばかり。

なぜ、そのような表現が出来たかというと、実際に永井荷風の女遊びは激しいものだったという。日本も昔は、貧乏が元で娘を人買いに売る親もいた。そういった娘が遊郭で働き、そういった遊女と水揚げ(関係を持つこと)することに永井荷風は女遊びを続けたという。

独身ならまだしも、永井荷風は2度も結婚し、その女遊びを辞めなかったそうなので、私生活は必ずしも安泰でなく、周囲との軋轢を繰り返したという。

1912年、商家の娘との最初の結婚は、新婚中から女遊びを辞めず、遊興三昧。
結局は、浮気がばれて1913年に離縁。1914年には新橋の芸妓・八重次(のちの藤蔭静枝)を入籍。しかし、末弟・威三郎や親戚との折り合いを悪く、しかも八重次との生活も、毎晩のように遊郭三昧で、翌年には早くも別居、以降、妻帯することはなかった。


結婚して、家庭に責任を持ってから、女遊びなんかをするとろくな事はないのは今も昔も同じ。
永井荷風は、遊ぶなら大人の嗜みとしての女遊び、俗に言う「綺麗に遊ぶ」ことができなかった。

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永井荷風の女遊びは芸の肥やし?

永井荷風の女遊び (1)

昔から、芸人が浮気や不倫することを「芸の肥やし」といい、浮気や不倫ではなく「遊び」特に女性と交際する風潮があった。


この芸人というのは、「お笑い芸人」だけを指す訳ではない。

芸人は本来「舞台で芸を披露する職業」で、歌舞伎役者も落語家もそして歌手やマジシャンも、舞台に立てばみんな「芸人」。それでは、芸能人でお笑い芸人だけが不倫や浮気をしてるのか?というと、それは違う。

歌舞伎役者、歌手、アナウンサー、アイドル、モデル、そして作家だってしている。
「芸人だから」それが許されるのではないし、かといって芸人だけ不倫をしたら批判されてもいい訳ではない。

芸の肥やしというのは、昔は芸人というのは世襲が多く、そのため子供の頃から舞台に立たされているのが殆ど。当然、家族や仲間内で仕事をしてるため、世間知らずで常識しらずな部分が多いから、どうしても知識が偏ってしまう。

現在なら、テレビやネット等色々調べて当たり前に色んな知識を持てるが、昔はそういう手段がなかった。

特に永井荷風のような作家というのは、色んな人間を描かないといけないし、時には女性の心理描写を描く際そんな時、家族で女らしい描写が学べるか?それは無理な話。だから、ある程度大人になれば、風俗で女性を知り、それを芝居などに生かしたり、その時の様々な経験を語ることが必要不可欠だった。

しかし遊ぶにも金がいる訳で、昔は借金してでも女遊びをしてた位、男にとっては異性を知る機会は風俗や芸者遊びしかなく、日頃のストレスを晴らすのと合わせて女の事を学んでいたという。

最近では、成功者が魔が差して不倫、浮気をするため、それは「芸の肥やし」とは何の関係ないし、浮気や不倫も結局はある程度成功した人間なら許されている方便として、「芸の肥やし」と言われているだけ。

現在では、不倫や浮気で仕事のスキルがアップする訳ではないし、当然批判もされており、芸人だけが特別扱いされている訳でもない。


永井荷風の場合、その時代、特にそういった世界の描写を描いたために、どうしても女遊びが必要だったといえる。

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日本における遊郭とは

永井荷風の女遊び

江戸時代の遊廓では、太夫、花魁といったように遊女の中にも位があって、太夫になる為には美貌だけでなく、他にも三味線、華道といった芸事に優れたあらゆる魅力をもった女性しかなることができなかった。

その遊廓にしてもちゃんとランクがあって、日本一有名な遊廓の吉原や下関の稲荷遊廓、長崎の丸山遊廓は文化サロンという面があり、今風に言えば「風俗+キャバクラ+メイドカフェ+スタバ」を合わせたのようなイメージ。

吉原でも大名・裕福な商人だけが行ける最上クラスから、庶民用の最下等クラスまであり、稲荷遊廓は「お女郎さん」と言われ客より遊女の方が上座に座っていたという所もあった。幕末の稲荷遊廓は伊藤博文や高杉晋作など、丸山遊廓は坂本龍馬などの海援隊が「会議」の会場に使用している。

芸者や遊廓のお女郎さんは、プロとして口が固いので、ヒソヒソ会議をするのに遊廓はピッタリだったようだ。また、稲荷遊廓ではイギリス人のアーネスト・サトウを伊藤博文などが洋食を用意して接待したが、これが文献に残る日本初の洋食で、「日本の洋食発祥の地」とされている。


だから、江戸時代の遊廓はいろんな顔を持っていた。


遊廓が、今の風俗みたいになったのは、大正時代~昭和初期。

理由はいくつかあるが、江戸時代は基本的に一見さんお断りな遊廓を、「一見さんにも開放した」大阪の松島遊廓が大成功。また、大正時代に出来た大阪の飛田遊廓の出現し、特に飛田は遊廓を株式会社化して資金の流れを一本に集中させ、建物をオール賃貸化して運営を合理的にしたことで、さらに料金を「◯円」と明朗会計にさせたり、部屋を個性的にするなど客へのサービスを多様化させた。

遊女も遊廓=和装から脱皮させ、洋装やチャイナドレスなどを着たりと、今で言う「イメクラ」の元祖も実は飛田発祥で、遊廓ビジネスを根本から変えた革命的遊廓。今で言うと、飛田以前の遊廓が個人商店の集まりの「商店街」なら、飛田はイオンの郊外型大型ショッピングモールのようなもの。

飛田がどれだけ「遊廓界の革命児」だったかというと、創業10年で客数、売上額不動の2位だった吉原をあっさり追い抜き、全国2位に。当時の遊女数・売上額・客数ぶっちぎり1位の「三冠王遊廓」松島はこれに刺激を受けて、「飛田スタイル」を受け入れ、それが全国に広がった。

また、明治以降は遊廓だけではなく、「私娼窟」「私娼街」と呼ばれたエリアも出来た。「私娼窟」は見かけは「居酒屋」「食堂」であったが、実は風俗。そこで働く女性は「私娼」と言われ、遊廓のように「女郎さん」と呼ばれるものでない(いわゆる「従軍慰安婦」もこの私娼)


そしてもう一つ「カフェー」の出現。

「カフェ」じゃなくて「カフェー」は、は女給と言われる女の子が横についてお世話してくれる喫茶店みたいなもの。それが、だんだんサービスが過激になって、「おさわりくらいならOK」「常連さんになってチップはずんでくれたら・・・」と現在でいうキャバクラのようになっていった。

遊廓は、法律で敷地や遊女の年齢などが制限されていたが(遊廓で働くにしても、厳しい審査があった)、「カフェー」にはそんな制限がなく、なので駅前でも堂々と営業出来ている。

実際、客や女の子が「カフェー」に流れていき、危機感を感じた遊廓側は、内務省警保局(今の警察)の指導もあって、遊女の待遇改善などの改革に乗り出した。そして、「カフェー」の出現によって、上に書いた「風俗+キャバクラ+メイドカフェ+スタバ」の「キャバクラ+メイドカフェ」が「カフェー」にとって代わり、「スタバ」は喫茶店、「風俗」は遊廓と私娼窟というすみ分けが出来上がった。

この風俗関連の娯楽の多様化とすみ分け化によって、かつてはお高く止まっていた稲荷遊廓や丸山遊廓は、時代の変化についていけず、急激に衰退。少なくても室町時代からの歴史と伝統があった大阪堺の乳守遊廓のように、格式にとらわれすぎたあまり、松島や飛田、同じ堺にあった龍神遊廓に客を完全に取られてしまって、ほとんど廃業してしまった。

ちなみに、「カフェー」は戦後に遊廓から引き継いだ赤線が「カフェー」を名乗ったので、「スナック」「バー」、バブル時代からは「キャバクラ」などに名前を変えた。

そして、この風営法「カフェー」に引っかかるんじゃないか?と最近マークされてるのが、「コスプレ」をして接客する「メイドカフェ」。現時点でグレーゾーンであることは間違いない。

今夜の放送では、永井荷風のゲスなまでの女遊びを再現ドラマ化。
日本歴史上、最もゲスと言われた永井荷風のゲスエピソードが語られる。

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